【プロフィール】
児島康宏(こじま・やすひろ) トビリシ在住。 東京大学卒(言語学)。日本学術振興会特別研究員、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所特任研究員、在ジョージア日本国大使館専門調査員などを務める。ジョージア映画祭では、映画の翻訳・字幕作成を手がける。
―― 最初にジョージアに興味を持ったきっかけは何でしたか?
児島康宏さん:
ジョージアとジョージア語に興味を持ち始めたのが大学3年生の時でした。
東京大学では1年と2年の時が教養学科で3年生になるときに専門学科に入るのですが、以前から興味があった言語学科に入って、色々な授業を受けているうちにコーカサス諸語やジョージア語などの話を聞くことがありました。
あと、チェコ語の専門家の千野栄一先生の言語学に関するエッセイの中で、ジョージア語に関してもよく取り上げられていました。こういったものの影響が大きかったですね。
―― 大学3年生の時からご関心を持たれるようになったのですね。
児島康宏さん:
大学4年生になって卒論を書くことになるんですが、ジョージア語を勉強しようと思い4年生になった春休みのときに、アロンソン(Howard Aronson) の本で、毎日勉強していました。
勉強を進めていくと、実際にもっと話せるようになりたい、もっと深く知りたいと思うようになりました。そこで、東京近辺でジョージア人がいないか探すようになりました。
知人を通して、神奈川県の平塚にジョージア人の家族が住んでいるということを教えてもらいました。
お父さんとお母さんそして長女、次女、長男の一家でした。お父さんが物理学者で、日本の企業の研究所で仕事をされていたんですね。1997年の時に知り合い、週に1回のペースで訪問をして交流を持つようになりました。
―― ジョージア語を学習しつつジョージア人家族と交流されながら大学生活を送られて、そのあと修士課程にも進まれたのですね。
児島康宏さん:
大学の卒業論文はジョージア語の文法に関して書いて、98年3月に大学を卒業して、4月に大学院に入りました。修士課程でもジョージア語に関して研究を進めたいと思いました。そして、絶対にジョージアに行きたい、行くしかない、と思うようになりました。
色々情報収集をしていると、トビリシ国立大学で1ヶ月のサマースクールがあることを知るんですね。参加希望のメールを出して行くことになりました。プログラムとしては、ジョージア語やジョージアの歴史や文化について学べるだけでなく週末はエクスカーションに行くなど、とても面白いものでした。
―― ジョージア語の前にも、色々な言語を学ばれていたと思います。他の言語と比べて、児島さんにとってジョージア語のどこが魅力だったのでしょうか?
児島康宏さん:
大学で言語学を勉強していたときに、能格言語について知ることになるのですが、果たして能格言語とはどんな感じなんだろう、180度ものの見方が違うんだろうなと思い、勉強してみたいと思うようになったんですね。
元々、ロシアや東欧の国々に興味があり、ロシア語を勉強していたのですが、そこからジョージア語に関心を持つようになりました。
―― 児島さんがジョージアへ行くと決められたときのご家族の反応はどうでしたか?
児島康宏さん:
旅行ではなく、大学のサマースクールへの参加ということもありましたが、心配はしていたと思います。今でこそジョージアは知られるようになりましたが、グルジアと呼ばれていた当時は情報もほとんどありませんでした。よっぽどサバイバルな生活になるんだろうなと思い、頭を丸刈りにしたんですね。ジョージアに行くのは夏で、シャワーを浴びられるかも分かりませんでしたし、暑いと聞いていましたから。
大学の学生寮では、シャワーは浴びれたのですがお湯は出ずガスが無かったり、停電もよくありました。
―― 今と比べると全く環境も異なっていたと思います。外国人の数も少なかった中、当時、児島さんがジョージア語で話しているとジョージア人はどのような反応をしていたのでしょうか?
児島康宏さん:
面白かったですよ。当時はそもそも外国人がいること自体が珍しかったです。中でもアジア人はとても少なく、街の中を歩いていると、視線を感じることがよくありました。店に入ってジョージア語で「これ、ちょうだい」などというと、驚かれ、「いつからジョージアにいるんだ」「なんでジョージア語を知っているんだ」「どこの出身だ」など関心を持ってくれて、頻繁に質問攻めにあっていました。
今でこそ、ジョージア語を話す外国人に慣れて来ていますが、当時は「がまるじょば」というだけでも喜んでくれて、面白いものでした。
―― 1ヶ月のサマースクールのあとに日本に帰国され、1年半ほど修士過程でジョージア語に関して研究を続けられていたんですね
児島康宏さん:
そうですね。2年間の修士課程を2000年3月に終えました。その後、サマースクールで1ヶ月ジョージアに行きましたが、長期留学して、しっかりと身につけたいと思うようになりました。その時、文部科学省のアジア諸国等派遣留学生制度というものがあり、応募しました。
合格して、再びトビリシ国立大学に2000年9月から2年間留学することになりました。
―― 今度は長期留学として再びジョージアに行くことになったのですね。修士課程での留学だったのですか?
児島康宏さん:
修士課程での留学ではありませんでした。当時はトビリシ国立大学に外国人が留学するということ自体がすごく珍しかったんです。トルコ人を含む、黒海沿岸のジョージアとの国境付近に住むラズ人はいました。トルコには大学が少なく、また、ジョージア語とラズ語は近いので、ジョージア語を勉強したラズ人がトビリシ国立大学で勉強するということはありました。
私は、聴講生のような形で留学をしていました。言語学を中心にジョージア語だけでなく、スヴァン語、メグレル語、古ジョージア語やチェチェン語などの授業にも出ていました。
2年間の留学の最後にジョージア人の妻と結婚をして、2002年9月に日本に戻ったんですね。
―― 留学後、日本に戻られて何をされていましたか?
児島康宏さん:
帰国したあとに、東京大学の博士課程でジョージア語に関する研究を続けました。
また、留学中に読んでいたノダル・ドゥンバゼの『僕とおばあさんとイリコとイラリオン』を翻訳して出版したいと考えていました。
2004年から、朝日カルチャーセンターでジョージア語講座を開講しました。当時は、6-7人が来ていました。初回の体験講座には20人くらいの人が来ていました。講座のテキストは私が作成し、ジョージア語は妻のメデアが教えていました。
―― メデアさんがジョージア語を教えられていたのですね。
児島康宏さん:
妻のメデアは、トビリシ自由大学の前身でもあるアジア・アフリカ大学の日本語科を卒業して、すでにそこで日本語を教えていました。日本語も話せるので、彼女が朝日カルチャーセンターでジョージア語を教えることになりました。妻の都合が悪い時は、私が代わりに教えるということもありました。
―― そして、博士課程を満期で終えられたあと、様々な大学で教鞭を執られていたんですね。
児島康宏さん:
博士課程を満期で終えて、2010年から2013年まで東京外国語大学のアジア・アフリカ言語文化研究所、通称「AA研」で研究員というポストで研究をしながら、選択科目としてジョージア語の授業を教えたりしていました。中央学院大学や清泉女子大学で言語学の授業を行うこともありました。
―― その後、在ジョージア日本大使館でも専門調査員として勤務をされていたんですね。
児島康宏さん:
2年間の留学から日本に帰国したあとも、毎年1-2回はジョージアに来ていました。留学後の10年間の活動拠点は東京だったのですが、次第に、ジョージアにまた長期間滞在したいと考えていました。そんな中、在ジョージア日本大使館での専門調査員という存在を知りました。試験に合格し、2013年から約5年間、大使館で仕事をしていました。
―― 大使館での仕事のあとに、現在のように翻訳分野などで活躍されるようになったのですね。
児島康宏さん:
2018年に大使館での仕事を終えて、日本に帰るということも選択肢としてはありました。ただ、ジョージアのほうが居心地がいいですし、なんとかなるだろうと思い、ジョージアに留まることを決めました。
2018年10月に開催された第1回ジョージア映画祭の準備がありました。私が専門調査員として仕事をしていたときに、岩波ホールに勤めていらしたはらだたけひでさんもジョージアに時折来て、映画祭の準備を進めていました。ジョージア映画祭の前の8月には、テンギズ・アブラゼ監督の祈り三部作と呼ばれる『祈り』『懺悔(ざんげ)』『希望の樹』を上映し、そのあとに、ジョージア映画祭も行いました。ですので、2018年は、ジョージア映画祭の開催をした岩波ホールにとって忙しい年でした。
大使館の仕事が終わったあとも、こうした映画の字幕作成の仕事もあり、忙しかったです。ですが、第1回ジョージア映画祭は成功し、岩波ホールが閉鎖される2022年に第2回ジョージア映画祭を開催することになりました。第1回目は20本上映しましたが、第2回目は30本上映することになったんですね。ですので、2021年はひたすら字幕を作る1年を過ごしていました。
2018年に栃ノ心が優勝し2022年はジョージアに対する関心も高まっていました。満席になることもあり予想以上の大成功でした。
―― そして、現在第3回ジョージア映画祭も準備中ですね。
児島康宏さん:
2024年9月に予定しています。残念ながら岩波ホールは閉館してしまったのですが、渋谷で第3回ジョージア映画祭を開催する予定です。
―― 映画1本の字幕を作るのに、どれくらいの時間がかかるのでしょうか?
児島康宏さん:
映画にもよりますね。大半の映画は1時間半くらいの長さですが、セリフが少ないもので600、多いものは2000近くになることもあります。たいていは、集中すれば、10日ほどで翻訳ができますが、他のこともしないといけませんから実際はもう少し時間がかかります。
―― 2024年に予定している第3回ジョージア映画祭は今までのものとどこが違いますか?
児島康宏さん:
ジョージア映画には、「ピロスマニ」や「懺悔」などソ連時代に作られた世界的に有名な傑作が多くあります。ソ連時代に撮影された映画のアーカイブはすべてフィルムで劣化してしまいましたが、今ジョージアではデジタル処理をして4Kで復元しようとしています。
私たちはジョージア側と協力して、復元された映画を上映しようとしています。
第1回ジョージア映画祭ではソ連時代の映画だけでなく、ここ10年に作られた比較的新しい映画も上映しました。
第2回ジョージア映画祭では基本的に古い映画のみを上映していました。
今度行う第3回ジョージア映画祭でもソ連時代の映画を中心に上映するつもりです。今まで上映した中で特に好評だった映画を一部上映しますが、基本的には今まで上映しておらず、新しくジョージアで復元された、日本人にとっても面白い映画を扱う予定です。
―― 1つだけ挙げるとしたら、どのような映画をお勧めされますか?
児島康宏さん:
「奇人たち」というエルダル・シェンゲライア監督の作品ですね。ジョージアで「シェレキレビ(შერეკილები)」というのですが、コメディチックでありながら大傑作のものです。ぜひご覧ください。
―― 最後に、30年近く、日本とジョージアの間で活動されている児島さんにお伺いしたいのですが、両国がもっと近づくには何が必要でしょうか?
児島康宏さん:
最初に2年間の留学をしていたとき、ジョージアにいた邦人は4人くらいしかいませんでした。
逆に日本に住んでいたジョージア人も少なかったです。私が交流していた平塚のジョージア人家族以外に、ジョージアで地震や土砂崩れなどが起きるとテレビでコメンテーターとしてよく出演されるテア・ゴドラゼさんという地質学者がつくばで研究していました。1999年ごろのことです。知り合って仲良くしていました。テアさんから、日本にジョージア人の家族がいるとのことで筑波に住んでいたレジャバ一家(ティムラズ・レジャバ駐日本ジョージア大使)を紹介してくれました。その頃は日本に住むジョージア人も少なく、交流をよくしていました。
元々、ジョージアでは日本のことを知っている人が多かったです。一方で日本ではジョージアのことを知っている人はほとんどいませんでした。
でもその後、栃ノ心が優勝、ジョージア・ワインが流行し、ジョージア映画祭が開催され、ルスタヴィのコンサートも行われました。また東京ではレジャヴァ大使の活躍もあり、シュクメルリが話題となり、ジョージアが日本でも知られるようになりました。これは歓迎すべき傾向だと思いますし、これからも続いてほしいと思います。
そのためには何をしていけばいいか。経済・政治的繋がりも大事ですが、お互いの国の文化を知ってもらう、日本にジョージアのことをより知ってもらうことが大切だと思います。
そのために私が翻訳をし、ジョージア映画を日本で上映して、日本人がジョージアとジョージア文化を知ってもらうために、少しでも貢献できれば嬉しく思います。