【プロフィール】 ジョージア映画祭主宰。絵本作家。1974年から約45年間、東京・岩波ホールで世界の名作映画の上映に携わる。『グルジア映画への旅』、『放浪の画家ニコ・ピロスマニ』、『放浪の聖画家ピロスマニ』などを著作。2022年にジョージア政府から文化功労賞が授与。
―― ジョージア映画に関心を持たれたきっかけはなんですか?
はらだ たけひでさん:
1974年の暮れから2019年2月に定年退職するまで、2022年7月末に閉館してもうなくなってしまった岩波ホールという映画館で仕事をしていました。岩波ホールでは世界60か国の名作映画を発掘、上映するという仕事に携わりました。
僕が仕事を始めたその時代は、カウンターカルチャーが日本を含め世界で盛んでした。また七十年安保闘争もありましたので、大学もほとんど閉鎖状態で、学校へもほとんど行かず自分で勉強しようと様々なところへ自分で行き経験を積むようにしていました。
僕が、岩波ホールに入ったのは20歳のときでした。当時は岩波ホールの草創期でしたので、非常に忙しく一生懸命に映画の紹介を中心に仕事をしていました。僕は、あちこち放浪したり、絵を描いたりすることが好きでした。そうした中で当時の高野悦子総支配人が、『ピロスマニ』という映画を試写したときに、僕の顔が輝いていたことに気が付いたようで、「あなたにこの映画を任せる」と言われました。24歳の時でした。
ところが、その頃はインターネットも何もない。当時はグルジアと呼ばれていましたが、百科事典にも長くて10行くらいの説明しかないほどでした。ピロスマニに関しての情報は皆無でした。しかし、映画を通してピロスマニとジョージアに非常に深い関心を持ちました。
そんな中、岩波ホールとして初めての外国からのゲストとして、ギオルギ・シェンゲライアが来ました。彼は、ピロスマニに惹かれている僕をを見て、「ピロスマニを本当に知りたいのであれば、ジョージアを知らなければいけない。この映画にはジョージアの人々の思いや歴史・文化・風土などをすべて込めたんだ」と言われました。それでジョージアに行きたいと思う気持ちが強くなりました。
――ピロスマニという存在が後に、ジョージアへ行くきっかけにもなったのですね。
はらだ たけひでさん:
仕事ですごく忙しい日々を送っていました。仮眠するために家に帰るような日々でした。そうした中で、新婚旅行という形であれば会社も否定しないだろうと思い、新婚旅行という名目で、モスクワ経由でジョージアへ行きました。
ギオルギ・シェンゲライア監督に、ジョージアへ行く前に、果てして郵送で着くのかどうかも分かりませんでしたが、手紙を出しました。そうしたら、ジョージアの空港に到着すると、ギオルギ・シェンゲライア監督と息子のニクシャ・シェンゲライアが待ってくれていたんですね。1週間寝る間もないくらい、ギオルギの映画関係の人たちのところへ案内され、スプラやポリフォニー、ジョージアンダンスなどを経験させてもらいました。新婚旅行だったのに、妻の手を握ることもないような日々でした。彼女もジョージアにうっとりしていたんですね。ポリフォニーのハーモニーの美しさやスプラでの来席したゲストを1つにまとめていくタマダのセンスの素晴らしさなどの奥の深さに驚きました。
小さな国なのにこれほど個性的で独創的な文化があるのだと驚嘆しました。そうして、日本でほとんど知られていないジョージアという国とピロスマニの絵を紹介していきたいと思うようになりました。その後、歴史の専門家である北川誠一さん、言語の専門家の下宮忠雄さん、民俗音楽の研究をされる森田稔さんなど、様々な分野でジョージアに関心を持っている人がいることを知りました。そういった方々と横の連絡を密にすることによって、ジョージアの文化理解を統合的に深めていこうと思いました。また、岩波ホールという場所を使ってジョージア映画を広めたいと思いました。
―― ジョージア映画祭を行うに至った経緯はなんですか?
はらだ たけひでさん:
単発で数年おきにジョージア映画を上映していました。ジョージア映画祭を開催したいという思いはずっとありましたが、当初は映画がフィルムで、30kgもの重さがありました。ジョージアから運んで、字幕を入れるという作業を行うと大きなお金がかかり、採算が取れませんでした。今は映画もデジタルなので、できるようになりました。
第1回ジョージア映画祭を開催するに至った経緯としては、2015年に岩波ホールで『ピロスマニ』を再上映したのです。その時に、ギオルギ・シェンゲライア監督にジョージア映画の現在について原稿を書いてほしく、誰か推薦してくれないかと頼みました。
そうすると、映画史家であるマリナ・ケレセリゼという方を推薦してくれました。彼女に原稿をお願いすると、本当に素晴らしい原稿が来て、胸を打たれ、ジョージア映画をもっと積極的に上映したいと思うようになりました。
2016年にマリナ・ケレセリゼにお会いしました。当時、『とうもろこしの島』や『みかんの丘』などの公開が決まっており、ギオルギ・オヴァシヴィリ監督やザザ・ウルシャゼ監督らに取材していました。その合間にマリナ・ケレセリゼにお会いして、彼女にジョージア映画祭を開催したい旨伝えました。
僕はジョージア映画というものは、ジョージアにあるものだと思っていました。実は、ソビエト時代の映画のネガのオリジナルはほぼ全てモスクワの映画アーカイブに保管されていました。また、ポジプリントも、2004年に保管場所で火災があり、多くが傷ついた状態であり、映画祭の開催は簡単ではないと言われました。しかし、少しずつ回収してはデジタル化して復元する作業が行われています。
その後、2017年にジョージアのフィルムセンターの関係者とご縁で繋がり、できる範囲で始めてみようと思うきっかけになりました。当時は岩波ホールがバックとしてあり、岩波ホールの仕事として、僕も動くことができました。
デジタルで映画が手に入ったとしても、字幕を入れる作業は業者に頼むと大きなお金がかかります。
大谷和之さんは個人でデジタル化をする作業をされており、知り合いを通じて知り合い、頼んだところ快諾してくれました。
こうして、字幕翻訳の児島康宏さんとデジタル上映素材制作の大谷和之さん、そして私の3人で連携することでジョージア映画祭開催を進めることが可能となりました。
他方で、新作映画の上映が問題でした。ジョージア映画の監督は自由に上映していいと言ってくれたとしても、新作作品は、海外のセールスカンパニーがついており、交渉をする必要がありました。しかし、交渉を含めて、すべて1人で連絡を取って開催に向け一生懸命に動いていました。
ソ連時代のクラシック映画に関しては、監督らやアーカイブの関係者らに「世界中に、はらだがいたらいいのに」と言われたくらいに僕のことを信用していただき、選択は限られましたが、上映したい映画を上映することができました。逆に私もたくさん尽くしました。このような協力関係があったからこそ、第1回ジョージア映画祭を開催することができました。
第2回ジョージア映画祭は僕が岩波ホールを退職してからでした。ですので、岩波ホールから場所の提供があったのですが、もちろん経費もかかりますし、貯金を崩したり、PRのためにも慣れないSNSを使うなどして、自分で開催に向けて尽力していました。
第1回ジョージア映画祭は2週間でしたが、第2回ジョージア映画祭は4週間開催し、全国を巡り、大成功となりました。地方での上映の収益は、監督や著作権者、そして遺族の方々に分配しました。「日本人はとても律儀だ、こんなこと今までない」と、とても喜ばれました。
―― 2024年秋に予定されている第3回ジョージア映画祭について見どころをご教示ください。
はらだ たけひでさん:
今までずっと上映をしたいと思っていた映画を含め、ゴゴベリゼ監督のこれまでの作品とギオルギ・シェンゲライア監督の兄であるエルダル・シェンゲライア監督の作品が修復され、ようやく手に入ったことです。合計40本上映予定で、僕の思いが込められたものになると思います。
―― 「ジョージア映画全史 -自由、夢、人間ー(教育評論社)」を執筆されたとのことですが、この本に込められた思いとはなんでしょうか?
はらだ たけひでさん:
僕は今70歳です。ギオルギ・シェンゲライア監督がコロナ禍の間に亡くなったり、コロナ禍が収まったら、会ってまたお話を聞きたいと思っていた長年親しくしていた方々がここ数年の内に亡くなり、喪失感がとても大きかったです。最後のとどめになったのが、井上徹さんというロシア映画の専門家がお亡くなりになられたことです。ソビエト時代を研究するためには彼の協力が必要で、井上徹さんもジョージアに関心があり、互いに協力をしていこうと話をしていた矢先に亡くなられました。
僕もいつ何が起きるかわからない、自分の知っている限りのことを書き残さないといけないと思うようになりました。児島さんにも協力頂きながら、自分なりに集積した知識を残そうとしているところです。「ピロスマニを知るためにはジョージアを知らなければならない、と同様に、ジョージア映画を知るためにはジョージアを知らなければいけない」と思い、本の冒頭にはジョージアの文化、宗教、言語、ブドウやワイン、ジョージアの歴史などについて織り交ぜながら、ジョージア映画の今日までのことを紹介しています。他にも、ポリフォニー、ジョージア料理、トビリシやスプラなど、ジョージアやジョージア映画に関して最低限知るために必要なことも書いています。
日本人は日本人の物差しで考えがちで、例えば、ジョージアワインに関してもまだ理解が深まっていないと思います。ジョージア人にとってワインはアイデンティティに近いものです。また、スプラでの亡き人への乾杯など、やはり意味深いものでもあります。また、スターリンの時代にどうやって映画人が抵抗したかなど、活字で残っていません、ソ連時代には書くことができなかったのです。ジョージア人の頭の中にあったものが、ようやく最近、ぽつりぽつりと語られ始められました。私は外国人でもあり、深く研究しているわけではありませんが、活字で少なくとも残していかなければいかないという思いがあります。
―― はらださんが想うジョージアの魅力とはなんですか?
はらだ たけひでさん:
1978年から46年、どうしてこんなに長く、ジョージアにとらわれているのだろうと考えてみると、ジョージアの魔法にかけられたのだと思います。うまく言葉にできないんですよね。
ズラビシヴィリ大統領が岩波ホールに2019年に訪問されたとき、「ジョージアには今、戦争がないから芸術の国になった」と語られました。なるほどと感じました。紀元前から非常に難しい位置にあるのに、生きながらえてきた。それはやはりジョージア人の核に、宗教なり、言語なり、文化・風習を守ろうとする姿勢、あるいは、それ以前に文化そのものが強固で固有の文化があったからこそ、ここまで何度も再生できたのではないかと思うのです。
ココチャシヴィリ監督が以前「ジョージア文化は劣化が進んでいる」と話されましたが、日本でも同様で、文化の劣化が進んでいるように思います。岩波ホールを含む映画館はなくなり、町の本屋さんがなくなり、そのようなことを放置してよいのだろうかと思うのです。
やはり人間が人間であり続けるために、ジョージア人がジョージア人であり続けるために文化というのはなくてはならないものだと感じます。ソ連時代にあった政治的・社会的抑圧の中で映画や文学を含めて名作を作り続けてきたという、ジョージア人のジョージア文化への愛情とそれを貫こうとする勇気と情熱、自らのジョージア人であることの誇りは立派だなと思うのです。映画を通じて、伝わってほしいと思うのです。
ジョージアのどこが好きかって、ジョージアの人が好きなんですよね。言葉では表現できないのですが、好きなんですよね。世界中の国の人も好きなんですけど、ジョージアの人はなんか好きなんです。ピュアなんですよ。みんな、ピュアなんですよね。そこが純粋さであり、きっとそれに魅せられているんだと思います。
―― 絵本作家としても活躍されているはらださんは、ジョージアの画家であるピロスマニにも大きな影響を受けたとお伺いしました。彼を題材にした映画もご覧になられ、実際にピロスマニの何に魅了されたのでしょうか?
はらだ たけひでさん:
ピロスマニを最初に見たときから、僕の頭の中で、彼は歩き続けているんです。その風景が僕の心に焼き付いているんです。彼は、ジョージア的な楽園からジョージア的な楽園へ向かっているんじゃないかという気がするんです。ジョージア人にとっての理想郷を彼は背負って果てしない過去から果てしない未来へ歩き続けているように感じます。
ジョージア人はいかめしい男でもいったん打ち解けると子供同士のように、とても近くなるんですよね。以前、こんな言い方をしました。「ジョージア人は太古のジョージアの楽園だったときの記憶のバラの棘を心に刺さったままにしている」。ジョージア人はそのバラの棘を抜くことはできないから、ジョージアの楽園、ある意味で夢を背負っている、そんな風に思うのです。
1人の人生の一つのピリオドとしてこうした思いを本に著わし、第3回の映画祭を開催しなければならないと思っています。